御祭神 呉市阿賀中央1丁目1番26号(神立)に鎮座する。

 御祭神 足仲彦尊・誉田別尊・息長足姫尊・多岐津姫命・多岐理姫命の五柱に坐し、
     相殿に国常立命を祭祀し、また、天照大神・大名持神・少彦名神・住吉大神
     の四柱を合祀する。

 御由緒 神功皇后が三韓よりの帰途、御解陣の砌、豊前の国、宇佐において、皇子応
     神天皇を御安産遊ばされ、やがて天皇とともに御還幸の途次、安芸の国、阿
     賀村冠崎の浜に御船係されたところ、連日悪風が打ち続いたため、同村字神
     達の内、神風呂(別称神経)というところに御逗留休息された。
     その地続きが現在の宮地である。そこの山裾は、もと一帯が砂浜の入り江で
     あった。その後、平安時代末、天永3年壬辰(1112年)5月、安芸郡加
     賀須浦(別称香津浦)の神経山に社殿を建立して足仲彦尊外五柱の御祭神を
     奉斎し、神達八幡と称え、この浦の氏神とした。
     厳島文書によれば、仁安年中(1166−1168年)相国平清盛が安芸郡
     穏渡の瀬戸を開削するに当たり、当社に奉幣使を遣わして工事の進捗を祈願
     せしめた、と記されている。
     永正年中(1504−1520年)に源盛勝が字神達の森峯に神殿を奉造し
     た由が、古い棟札に記してある。
     その後、天文6年丁酉(1573年)5月字神立の内、香賀須山(別称香津
     山)に奉移し、さらに永禄5年壬戌(1562年)6月同地の社地を広め社
     殿を改築し同月8日此処に鎮座して神田八幡宮と称した。
     江戸時代に入り、寛文9年己酉(1669年)4月15日神殿を再建、つい
     で享保9年(1724年)御本殿を造立、安永7年(1778年)8月、拝
     殿を再建、明治23年(1890年)8月10日幣殿を再建、また、大正5
     年(1916年)12月17日、幣拝殿を一棟とする大改築と境内を拡張整
     備、昭和34年(1959年)拝殿屋根葺き替えと絵馬拝殿の改修、昭和5
     8年(1983年)8月31日、御本殿屋根葺き替えと参集殿の建立、社務
     所の再建、平成14年(2002年)6月21日拝殿と手水舎の屋根葺き替
     えと改修し御供殿を再建、また芸予地震で損壊した鳥居を再建し、被災箇所
     の修復を行い今日に至る。
     明治4年(1871年)社号を改めて神田神社と称し明治40年(1907
     年)3月19日、神饌幣帛供進使の指定を受ける。

 文化財 神田神社社叢(呉市指定天然記念物)
     神田神社絵馬(呉市指定重要文化財)
総鎮守  神田神社社務所
神田神社 由来